• 1679

    こころざしと発想の、初代伊兵衛

    にんべんを創業した初代の髙津伊兵衛は幼名を伊之助といい、延宝7年(1679)、勢州四日市(現在の三重県四日市市)に生まれました。

    元禄4年(1691)、12歳の伊之助は江戸に上り、日本橋小舟町の雑穀商「油屋太郎吉」で年季奉公を始めます。18歳になる頃には早くも商才を認められ、店主の名代として上方へ出張するまでになりました。

    しかし、早すぎる出世を疎まれ、嫌がらせを受けて退店。このとき蓄えもありませんでしたが、20歳の伊之助は挫けることなく、日本橋四日市土手蔵(野村證券旧本社付近)に戸板を並べて、鰹節と干魚類の商いを始めました。時は元禄12年(1699)。当社ではこの年をにんべん創業の年としています。

    さて、勢いを得た伊之助は宝永元年(1704)、小舟町に鰹節問屋を開業。翌年に伊兵衛と改名し、屋号を伊勢屋伊兵衛、商号を今のおなじみのカネにんべんと定めました。正徳元年(1711)に最初の結婚。享保元年(1716)には故郷の伊勢を経て大阪へ上り、かつての上方出張で得た経験を生かして上等な鰹節の仕入れルートを確立します。

    初代 肖像画

    その後、享保4年(1719)に亡妻の妹と再婚した伊兵衛は、翌享保5年に日本橋瀬戸物町(現在の室町2丁目)に鰹節の小売店を出店。この店はわずか1年で火事に遭い、焼け落ちてしまいますが、翌年には幕府のお触れを遵守して土蔵造りの堅牢な店を再建。そこへ家族とともに移り住みました。

    この瀬戸物町の店は、これ以後、関東大震災で焼失するまでの約200年間、度重なる火事にも類焼を免れて焼け残ったため、「にんべんの門松は火災除けになる」という俗信が生まれ、門松は正月を迎える前に松の葉をむしり取られてしまったそうです。

    そんなエピソードも残るほど江戸町民から親しまれ繁盛することができた理由は、当時江戸では珍しかった上方下りの鰹節を扱ったこととともに、「現金掛値なし」の扱いを貫徹したことにありました。

    金・銀・銅という3種の貨幣が流通し、その3貨の換算率も流動的であった時代に、匁単位の正価で売る商いは画期的なものであり、帳場のうえには「現金かけ祢那し 小判六十目 銭時相場」という伊兵衛直筆の看板が大きく掲げてあったとのことです。

    初代伊兵衛は3人の息子を残し、享保14年(1729)に50歳で他界しましたが、その信条は21世紀の今日まで、脈々と受け継がれています。

    初代伊兵衛が自ら大書した「現金掛値なし」の看板

    カネにんべんの話

    初代伊兵衛は、店の屋号を「伊勢屋伊兵衛」とし、暖簾印(商標)には"伊勢屋"と"伊兵衛"からイ(にんべん)をとり、商売を堅実にするための曲尺の¬(かね)をあわせてイ¬(かねにんべん)としました。江戸町民たちは「伊勢屋」の代わりに、誰ということなく「にんべん」と呼ぶようになり、今日の当社の社名となっています。

  • 1714

    「鰹節屋」の基盤固めをした、三代目

    初代伊兵衛が残した3人の息子のうち、兄のあとを継いで三代目伊兵衛を襲名したのが次男・茂兵衛です。三代目は「現金掛値なし」の商法を押し進めるとともに、上方から徳用鰹節も仕入れて大衆向けの販路の開拓にも努めました。

    とはいえこの頃の商いは上等節中心で、その大部分が大名家の御用達。

    三代目は、黒田候、加賀候、酒井雅楽頭、佐竹右京大夫など多くの大名家から御用を請け、特に黒田候からは宝歴10年(1760)の大火の折、被災者支援のため無償で大量の鏡餅を配ったことを称揚され、「二重石餅」の紋を下賜されるという栄誉に浴しました。

    また、三代目は筆まめな人でもあり、初代以来の事業歴を記した『追遠訓』や、子孫への戒めを綴った『遺嘱』を残す(髙津家に現存)など、にんべんの発展に大きく貢献。安永8年(1779)に65歳でこの世を去るまで、その活動は続いたのでした。

    三代 肖像画と墨跡

    三代目の墨跡

    三代目伊兵衛が残したこの墨跡は、唐代の詩人・王維の「観獵」という漢詩です。三代目の人物像とともに、当時の上層商人の知的活動の高さを推し量れる貴重な作品です。

  • 1782

    江戸文化の擁護に貢献した経営のアイデアマン、六代目

    さてその後、四代目は三代目の長女の婿・権右衛門が受け継ぎ、さらに四代目の次男・多吉が五代目を襲名しましたが、五代目はわずか四カ月後に9歳の長男を残して他界。ここに創業以来115年、初めて夫婦とも外部から入ることを意味する"両入り"の当主・六代目が誕生しました。

    六代目に選ばれたのは、伊勢髙津家六代目の娘・朝の婿となっていた佐兵衛。佐兵衛は家督を相続すると、その年に就業規則ともいうべき『見世取締仕法書』の執筆にとりかかる(完成は46年後、八代目のとき。髙津家に現存)とともに、独創的なアイデアと優れた経営手腕を発揮して、にんべんの屋台骨をゆるぎないものにしていきました。

    その最たるものが、天保年間(1830~44)に創案し、発行した銀製の商品券"イの切手"です。正味二匁の銀で価値を担保したことで、はじめて商品券を市中に広く流通させることに成功しました。残念ながら銀製"イの切手"は当社に現存していませんが、商品券そのものは幕末から明治は和紙に墨書、大正以降は印刷物へと形を変えて発行され続けました。

    また、六代目は絵画の蒐集家としても広く江戸に知られ、大正12年(1923)の関東大震災で惜しくも消失してしまいましたが、松尾芭蕉の墨絵のほか円山応挙、酒井抱一、英一蝶の絵画や、鈴木春信、勝川春章、鳥居清長など髙津版の初版摺錦絵を数多く所有していました。

    さらに晩年には蜀山人、大田南畝や、国学者で歌人の村田春海、絵師の狩野栄川らが瀬戸物町の店奥の住まいに足繁く出入りするなど、江戸時代を通じての最盛期を迎えたのでした。

    江戸時代の店舗

    髙津版錦絵「山王祭」

    六代目の頃、親類の髙津家が版元をしており、「髙津版錦絵」と称されているものです。この「山王祭」は、美人画の名手としても知られている鳥居清長の作で、6月14・15日の両日にわたって行われた祭りを描いたもので、風俗的に見ても貴重な作品とされています。また、多くの人物を巧みに配した清長の構図力が見られる優品といわれています。

  • 1825

    衰運から立て直した中興の祖、八代目

    天保8年(1837)、六代目が54歳で他界すると、五代目の長男が七代目を襲名しました。しかし、幕末・維新の激動期、それまでの六代目の浪費も祟り、家業はいっとき衰運に傾いてしまいます。混乱の中、嘉永2年(1849)に七代目が43歳で他界。家業の盛り返しは、襲名時、若干24歳だった八代目・吉憲の手腕に託されることになりました。

    八代目は、襲名後ほどなく勘定奉行の池田播磨守から御用商人に取り立てられて「徳川五人衆」となり、名字帯刀を許されるなど家業の盛り返しに成功しました。

    ところが、幕府の瓦解にともなって、今度は幕府や諸大名への莫大な貸付金や売掛金が回収不能となり、経営は再び危機的な状況に。しかし、八代目は一切そのことを口外せず独力で乗り切り、また、それに関し一切自慢することなく、しかも土地や美術品を手放すこともないまま、新政府の世に巧みに適応していきました。

    二度の危機を乗り越え、いまも中興の祖と称される八代目。明治14年(1881)、56歳で他界するまで優れた経営手腕を発揮し、家業は次代へと引き継がれていったのでした。

    錦絵「持丸俳優力競」

    明治9年(1876)に刊行された、当時の財産家を歌舞伎俳優に見立てた錦絵『持丸俳優力競』。伊勢屋伊兵衛が勧進元として描かれています。

  • 1852

    発展と近代化に取り組んだ九代目、十代目、初代社長

    さて、九代目を襲名した、八代目の長女綾の婿・善紹。さらには、明治32年(1899)に32歳で十代目となった八代目の四男・松吉。この2代により、家業は順調に発展しました。

    明治37年(1904)には事実無根の中傷記事による"イの切手"の取り付け騒動に見舞われましたが、店頭に鰹節の山を積み上げて冷静に引き換えに応じたため、混乱もなく騒ぎは終息。日露戦争の開戦とともに陸軍の御用商人として鰹節の納入を一手に引き受けるまでに事業が拡大しました。

    大正7年(1918)、にんべんは個人商店から株式会社となり、八代目の五男・六平が初代社長に就任。番頭、若衆、小僧など約60人の従業員も社員となりましたが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、享保年間以来200年の歴史を誇ってきた店舗を消失してしまいます。しかし、9月20日には本郷に仮事務所を設置。10月5日から小石川駕籠町交差点の仮営業所で鰹節の小売りを再開するなど素早い対応で庶民の暮らしを守り、帝都の復興にも寄与しました。

    大正13年(1924)には瀬戸物町に二代目社屋を新築。さらに昭和2年(1927)、店舗を増築するとともに(翌年の地名変更で日本橋瀬戸物町から日本橋室町となる)小舟町の土地を購入して東京鰹節問屋組合(現:東京鰹節類卸商業協同組合)の合同入札場(現在、晴海にある鰹節取り引き所の前身)として寄付するなど、鰹節業界全体の拡大や近代化にも尽力したのでした。

    関東大震災後の店舗

    取り付け騒動

    明治37年(1904)6月16日午後、中傷記事に扇動された数千人もの群衆がにんべんの店へ商品切手を持って押しかけました。日本橋の交通はストップし行列は翌日まで続きましたが、同業者や魚河岸の応援を得て全力で現物を取り寄せた結果、1日で54,000枚もの商品切手をすべて現品に引き換えました。3日目に見に来た人は、鰹節の山を見て安心して帰ったといわれています。交換に際しては上質品のみを量目以上に渡したため、この事件はかえって、にんべんの信用を不動のものとし、明治38年(1905)まで商品切手は爆発的に売れました。

  • 1905

    戦前の絶頂期、終戦、そして戦後の営業再開へ、
    十一代目(二代目社長)

    昭和6年(1931)、十代目の長男で明治40年に十一代目を襲名していた義和が二代目社長に就任しました。このころにんべんは宮内省大饍寮や三井本家、岩崎家、渋沢栄一家などに足繁く出入りし、三井本家だけで毎月10貫匁以上の鰹節を納入。維新後から戦前にかけてひとつの絶頂期を迎えました。

    ところが、昭和11年(1936)に初代社長が66歳で他界したころから敗戦色が濃くなり、太平洋戦争勃発後の昭和17年(1942)には店が統制物質の配給所となったほか、十一代が国策会社の社長を兼務したため闇取り引きもできず、商売は開店休業の状態になってしまいます。

    そして昭和19年(1944)11月29日、B29による初めての東京空襲で店舗が焼失。赤坂の新坂町にあった屋敷も昭和20年(1945)5月25日の東京最後の空襲で焼失してしまいます。髙津一家は、神奈川県小渕村に間借りした疎開先の農家で、終戦を迎えたのでした。

    それから約3年後の昭和23年(1948)。御先祖祭の日(初代の誕生日にあたる3月17日)に、にんべんは社名を髙津商店から"株式会社にんべん"と改め、新店舗を建設し、戦後いち早い営業の再開を果たします。当時、鰹節だけでは商売が成り立たなくなっていたため、食品部を設けて鰹でんぶ、たらこ、佃煮などを販売しただけでなく、免許を取得して洋酒の販売も手掛けたとのことです。どんな時代にあっても家業を守る、初代から続く志が当時も脈々と受け継がれていました。

    昭和23年の店舗

    戦時中の配給

    昭和16年(1941)大東亜戦争へ突入、翌17年には「水産物配給統制規則」交付、自由商売は一切禁止されました。十一代目は国策配給会社の日本鰹節統制会社の社長を兼務していたため、責任は重く闇取り引きもできず、1日500袋(1袋3円)を配給するのがやっとでした。当時の社員によると、客は朝5時から行列し、7時頃には定員に達し、9時半の売出しを待たずに売切れのあり様。昭和19(1944)年になると鰹節はなくなり、トロロ昆布などをにんべんと三越が月2~3回配給するのがやっとで、まさに開店休業状態でした。

  • 1970

    高度成長の世に新製品を送り出した、三代~五代社長

    昭和26(1951)年、健康を害した十一代目は社長を退き相談役となりますが、長男の明義(十二代目)がまだ高校生だったため、分家の次男・至道が三代社長に就任。

    昭和30年(1955)には十代目の長女・朝の婿、農夫也が四代目社長に就任します。折しも世は高度経済成長の真っただ中。四代目社長は、それまで頑に守ってきた本店一店主義を改め、伊勢丹新宿店の志にせ街や、渋谷の東横のれん街などへの出店を開始しました。

    昭和30年頃の店舗

    昭和38年(1963)には四代社長が会長となり、十一代目の妻・倫子の弟・照五郎が五代社長に就任。そして翌昭和39年(1964)、東京オリンピックが開催されたこの年に、当時としては画期的な新製品であり、いまもお馴染みの"つゆの素"が発売されます。

    その販売担当者に任命されたのは、当時まだ企画課長だった十二代目でしたが、当初は問屋周りをしても注文は取れず、持参したサンプルを目の前でゴミ箱に捨てられるなど苦労の連続。

    しかし"つゆの素"は、植物性の醤油と昆布に初めて動物性の鰹節だしを加えた優れた製品だったこともあって次第に受け入れられ、現在では数多く出回る類似品のなかで出荷量・売上高とも業界トップクラスを誇る商品に成長しています。

    昭和43年(1968)、東京で8番目に古い老舗として都から表彰された翌昭和44年(1969)には、それまでの常識を打ち破る斬新な新製品"かつおぶし削りフレッシュパック"が誕生。削りたての風味の長期間の保持を可能にした優れもので、発売後8年間で166倍もの伸びを示すほどの大ヒット商品となりました。

    つゆの素初代

    フレッシュパックが世に出るまで

    昭和37年(1962)、にんべんの技術陣はアルミ箔包装に窒素ガスを入れてシールするボックス型の真空包装機でパック商品に成功。しかし、中身が見えないため発売は断念。昭和43年(1968)になると、ポリプロピレンとポリエチレンでビニロンをサンドイッチした3層フィルムが包材として出てきたことに着目、これを使用して念願の「フレッシュパック」が完成しました。

    古来鰹節は「お客様の顔を見てから削れ」と言われてきたほどデリケートなもの。社内にも販売関係者にも発売への反論がありましたが、五代目社長と当時取締役総務部長だった十二代目はそれを押し切ってゴーサインを下しました。

  • 1979

    世界の味をめざす挑戦者、十二代目と現社長

    昭和48年(1973)、155坪の敷地に地上8階・地下2階の本社ビルが竣工。昭和52年(1977)には十二代目が第六代社長に就任しました。久々の髙津家当主による社長就任を祝うかのように、初代生誕300年にあたる昭和54年(1979)秋、農林水産省から天皇杯が授与。そして平成6年(1994)には十二代が栄えある藍綬褒章を綬賞しました。

    平成8年(1996)春、髙島屋横浜店で3年間の研修を終えた十二代目の長男・克幸(十三代)が入社。平成21年(2009)、創業310周年のこの年に社長に就任しています。

    12代当主と13代を継承した髙津伊兵衛(克幸)※1998年当時の写真

    平成22年(2010)、日本橋「コレド室町」ビルに「日本橋本店/日本橋だし場」新店舗を開店、平成24年(2012)に日本橋だし場の飲むおだし「かつお節だし」が発売以来30万杯を記録、そして平成26年(2014)には「コレド室町」全体開業に伴い、新たに飲食店舗「日本橋だし場 はなれ」を開店、同時に新社屋が完成と、矢継ぎ早に新たな挑戦を打ち出し続けています。

    にんべんは近年、だしの事業領域をさらに広げて、惣菜・料理の分野に進出しています。2019年にJR品川駅に弁当・惣菜店「日本橋だし場 OBENTO」を、2020年にCIAL横浜に惣菜専門店「一汁旬菜 日本橋だし場」を開店しました。だしのうま味が活きた料理を通して、鰹節やだしを味わう場を提供しています。

    伝えつづけた日本の味を世界の味へと広めて行くため、いま、新たなスタート地点に立っています。

    日本橋だし場

    天皇杯

    フレッシュパックの開発と、その製法を広く公開して鰹節の需要を増大させ、業界の発展およびカツオ漁業の経営安定に貢献した功績への綬賞でした。